キリストの復活
十字架で刑死されたイエス・キリストのなきがらを、女弟子たちは探していました。ところが墓の中でイエスのなきがらは消えていたのです。そこに天使が現れて「イエスはよみがえられた。」と伝えたのです。出来事は、常識の枠から一歩も出ることのできない人間としての予測をはるかに超えたものでした。女性たちは復活を確認する何のすべもありませんでした。でも、不思議にも伝えられた主イエスの復活を信じたのです。
主の受難を前にして女性たちは、男性の弟子達より、むしろ冷静沈着でした。男性の弟子たちは、すでに裁判の時点で、信仰は崩壊し、共同体はクモの子を散らすように、ばらばらになっていました。しかし女性たちは、十字架上で身もだえして、絶命する主イエスの最期を見守りもしました。その人々が復活の出来事を知らされ、これを信じたのです。しかしこれをつたえ聞いた男性の弟子たちは、女性たちがまともな精神状態とは到底思えなかったのです。
女性たちの感情は<喜び>と<おそれ>が混在していたようです。それは感情的にはある種<興奮状態>ととることもできたでしょう。でもキリストの復活を知ってしまったなら、喜びと恐れで、興奮状態にならないほうがおかしい。女性の弟子たちは、復活を知って沈黙していることができなかったのです。主イエスの復活を知ったということは単にその事実を知り、受け入れたということにとどまらないのです。それは新たにとてつもない神の可能性に触れることです。自分自身が生きることについて、根本的に見える世界が変わってしまうこ とです。
何百トンもの重量のあるジャンボジェットが、空を飛ぶということは、100年前の人々には夢想だに出来ないことだったでしょう。たとえその時代にジャンボジェットの構想を抱いていた人がいたとしても、<そんなことがあるはずはない>と大勢が主張すれば、そのほうがはるかに論理的に響くのです。キリスト教信仰に接するときに、人々はとたんに理性のとりこになって、むきになって説明を求めるようなところがあります。女性たちは理性で納得できるようにキリストの復活を伝えたのではありませんでした。もともとそんなことは人間には不可能なのです。出来事に感動して、驚きをもって伝える。人間の理屈や限られた言葉を越えて迫るキリストの復活の事実。そこに心開かれたいものです。
(2007年04月08日 週報より)