洗礼、そして聖餐
はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
ヨハネ書3:5
現在の日本のキリスト教会で最も問題となっている聖餐の位置付けに関わる核心的な御言葉です。ここでは、水による洗礼と霊による洗礼が必要であると述べられています。しかし、どちらが先でどちらが後といった優先順位については述べられていません。述べられているのは、水による洗礼がなされても霊による洗礼がなければ神の国に入ることができないし、霊による洗礼がなされても水による洗礼がなされなければ、同じように神の国に入ることはできないということです。水による洗礼を受けた者だけが聖餐を受けることができるという考え方は、水による洗礼を受けていても霊による洗礼を受けていなければ聖餐を受ける資格がないことを導きます。
このことは、霊による洗礼を受けた者が、たとえ水による洗礼を受けていなくとも聖餐を受けることができ、そのことを通じて水による洗礼に至る可能性を示しているのではないでしょうか。
最近、ある人から「信仰すると信仰を持つというのは、すこし意味が違うのではないでしょうか?」という質問を受けました。
確かにそうです。「信仰する」というのは心の問題です。しかし「信仰を持つ」というのは、信仰を持っていることを表すという形の問題です。霊によって信仰し、水によって信仰を持つということでしょうか。
ある人は、キリスト者とキリスト教徒とは異なると言いました。今まで深く考えることもなかったことですが、確かにそうです。人は霊による洗礼を受けてキリスト者になります。人は水による洗礼を受けてキリスト教徒となります。キリスト者でありキリスト教徒であることが主の望まれていることです。しかしキリスト者でありながら(主をじていながら)、キリスト教徒ではない(形の上で数会に属していない)人のことをないがしろにして良いのでしょうか。主は、そのようなことを決して望んではいないと思います。それは「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた」(ルカ書 7:50)と記されているからです。
私たちは「ファリサイ派のパン種に気をつけなさい」(マルコ書8:15)と用意周到な忠告を受けているにもかかわらず、形(水)だけを見て、心(霊)をないがしろにしているような気がします。水の洗礼を受ければ、それで終わりではありません。洗礼は、水であろうと霊であろうと幾度でも繰り返し経験すべき事柄です。聖餐という儀式は、そのことを確認する意味があるのではないでしょうか。
日々新たにされること、簡単なようで難しい課題です。
五十嵐 彰(2024年3月10日 週報の裏面より)