受難節を迎えて
受難節に覚える言葉は「弟子たちの裏切りと背信」という言葉です。おそらく、最盛期には数千人にも及んだ弟子たちの集団は、主イエスが十字架にかけられる段になると、もっとも中心的な12弟子たちでさえ主イエスを見捨てて逃げ出し、使徒たちの中心であったペトロさえも「そんな人は知らない」としらを切ったのです。裏切られたのが他ならぬ主イエスであったからこそ耐えられたのであって、普通の人間なら終生立ち上がることのできないほどの精神的苦痛を背負い込み、二度と他人に心を開かなくなる程のことであっただろう。
主イエスを3度「その人を知らず」として主イエスを裏切ったペトロ。
<そんな事実は無かった事として別人になりきる>
ときおり、戦争犯罪を犯した元ナチ高官が自らの過去を封印する手法です。けれどペトロはそこまで凶悪ではなかった、彼は裏切った事実を胡麻化したり忘れようとはせずに、自らの弱さを真摯に見つめました。いかつい大男のペトロは男泣きに大声で泣いた。
その大祭司の館で起こった出来事をルカは次のように描きました。
まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは「今日、鶏が鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
ルカ22:60-62
主イエスはどんな眼差しでペトロを見つめたのだろうか。ただの人間ならば、これは裏切り者への深い恨みと非難が込められた憎悪の視線であったに違いないでしょう。けれど主イエスのこの時の眼差しはペトロへの憐みと許しが溢れていた眼差しだった。それほど深く主イエスはペトロを理解し、受け止めておられた。その眼差しと理解でペトロを立ち直らせたのでした。弟子達とは、この主イエスの眼差しが注がれる者と言えるかもしれない。ペトロは3度にわたって主イエスを知らないと言いましたが、私たちは何度主の御心に反したことでしょう。それでも主の眼差しは私たちに注がれています。
2023年3月5日 礼拝メッセージより