心を献げる

ルカ福音書21章1-9節

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新年を迎えましたが地球の温暖化はますます進むようで、不安の種は尽きようもありません。天災や人災を「世の終わりのしるし」として、ことさらに信仰心を掻き立てようとする新興宗教の働きかけは、いつの時代にもあります。今日の舞台はエルサレムの神殿です。神殿の経営のために、いかがわしいと言えるほどの手段が講じられていました。主イエスはエルサレムに入ってまず、神殿で商売をしている商人たちを追い出しました。それは神殿を支配し、神殿礼拝から莫大な利益を搾取している祭司長たちの怒りを引き出しました。この21章の直前の記事、20:46、47節には主イエスが律法学者への厳しい批判を展開しました。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは。人一倍厳しい裁きを受けることになる。」 

当然ですが、律法学者は律法に詳しいのです。そして律法の中で繰り返して述べられるのは<やもめと孤児>を守ることです。勿論、それは律法の有る無しによらず重んじられねばならないことですが、<神の民たらん>とするイスラエルにとっては一層大切なことです。けれど律法学者の実態は「やもめの家を食い物にする者」と主イエスは言われました。神の民であることこそイスラエルのアイデンティティーなのに、その信仰を守るはずの祭司は神殿を莫大な利権の場とし、「やもめの権利を守る」と言ってやもめの家に近づく律法学者は、必死に取りすがって援助を求めるやもめを「食い物にしている」と主イエスは言われます。
そうした一人のやもめが祈りをするために神殿に来て、レプトン銅貨2枚を捧げたのです。レプトンとはユダヤの貨幣で最も小さな単位だと説明されています。ほんの数十円というところでしょうか。そして3節、4節にこういわれています。ここはとても短いところですが、忘れがたく、わたしたちの心に突き刺さるところです。私はこの記事から献金についてのコトを言うつもりは全くありません。しかしこの貧しいやもめがナニを思ってこの献金をしたかということです。

今の日本で例えると、餓死するしかないほどの経済状況にあった女性かもしれない。でもこの人はためらったり、嫌々ながら献金した様子はありません。堂々と、悲しげではなく顔を上げて、つまり神にゆだねて、神に信頼してこの最後の2レプトンを捧げたのです。「生活費全部を神の手にゆだねて捧げた」と言うべきです。そして<きっと>この人は今までもそうして生きてきた。信仰に生きるとはそうしたことなのかもしれません。わたしたちは常に危機的に生きるわけにはいきませんから、日ごろはつましく、無駄な出費は避けて日々を送ります。同時に、わたしたちの生活が世の中の経済の動き次第で、防衛のしようのない危機に陥ることもありえるのです。日本の国債残高が1000兆を越したといわれますが、そこで何らかの混乱が起こるのではないかという人は少なくありません。日本は戦後、貯蓄価値が100分の一になるインフレを経験したのです。ですから1億円が100万円になると言うこともあるのです。私たちの親たちはそういう時代を生きてきた。
この女性は生活への思い煩いもないのです。わたしたちはお金へのわずらいに満ちて日々を歩んでいます。教会もそうです。しかし神にゆだねて歩むことも、もう一つの可能性です。神の恵みにゆだねきる。そうして歩んでいくと、そうした人生がそこに開けてくる、それもまた真理です。

ある人たちが神殿の見事な石と奉納物に感心していたのです(2節)。神殿の見事な石に個人の名前が彫られていたと考えられます。それは信仰の行為だろうと思います。でも信仰の行為でないかもしれない。名前のある人が力を示すために行ったことかも知れない。だれもがその大きな奉納物と名前を見て圧倒されたのです。貧しい名前も記されないやもめは信仰行為として生活費全部を差し出した。でもその献金に目をやったのは主イエスただ一人でした。圧倒的な石の建造物である神殿を見て、それが永遠に立ち続けているかのように人々は思ったのです。そこに主イエスは言われます。「・・・これらの石一つとして崩されないで、他の石の上に残ることはない。」
かつてエルサレムの神殿が建てられたとき、ソロモンは祈りました(1列王記8:27-31参照)。会堂が大きいか小さいか。立派か立派でないか。石や黄金に囲まれているかどうか。・・・問題ではないのです。そこに神の光が射しているかどうか。神の名がおかれているかどうか。どんなに立派な神殿も、ひとたび崩れ始めると留めようがない。大きな石があるから、立派だから、神の祝福は安全だと信じ込んでしまう。

ルカ福音書7-9節では話が随分発展するのです。
神殿が崩れるときが来る。やがて私こそキリストだと言うものが現れる。もう世界の終わりが近づいたと言う。戦争と騒乱のうわさが聞こえてくる。でも、それは世の終わりのしるしではない。動揺するな。

主イエスが世の終わりを語る言葉が時折出てきます。こうした言葉を読むときにやはり戸惑いを覚えないわけにはいかないのです。最近の温暖化は、人類は滅亡2分前などと伝えられました。しかし主イエスの言われる「終わり」は単なる終末ではありません。すべてが滅びると共に、神の救いが実現されるときでもあるのです。たしかに永遠不滅のように感じられる星も、誕生から死があると伝えられます。太陽もいずれの日にか、その輝きを止めます。それはわれわれにとっては途方もない時間の流れではあるけれど、やがて終わりが来る。そしてそれら一切に神の目、神の手が注がれるということです。そこに神の現実があります。すべての宇宙空間、時間を越えてイエスの眼差しが注がれるのです。そこにある永遠の時間の流れの中で、主イエスは私たちに目を注がれるのです。私たちをどう救おうか、私たちの心を如何にして引き上げようかと主イエスは心を動かされるのです。一方で、地上の人々は見事な石と、その奉献物、奉献者の名前に心奪われます。そして現にその神殿はやがて火を放たれて、その石は完璧に覆され、破壊されたのです。人々は「もう世の終わりだ」と嘆きました。しかし主イエスは言われます。「終わりではない」。

(エレミヤ30:12-21を参照)。われわれの目にはもう終わりと見えることも、そこに神の眼差し、眼を信じることです。たとえどんな立派な神殿にあっても、レプトン銀貨を捧げる思いを捨てないことです。資金の運用ではなく、神が動くとき、救いの業は起こるのです。私たちが終わりだと思っても、神はこの世界を終わりにしない。私たちには絶望しか見えない状況でも、絶望してはならない。神が絶望させないからです。エルサレムの神殿は崩れるけれど、神の救いの計画は崩れないのです。むしろ、エルサレムの壁が崩れることで、神の救いは前進するからです。

2023年1月29日 礼拝メッセージより

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