痛む心にキリストの愛が!
人は、自らの人生に、他人がどう受け止めようと、自分だけの願いや期待を抱くものです。願いどおりの人生などはありえませんから、多くの人々は見果てぬ夢に破れながらも、それでも、夢見たわずかながらのことは、願ったとおりでなくても、形を変え、実現していきます。そうして生きて来た人生を、これでよしと心に納められる人がいます。かと思えば、周囲のだれも記憶もしていない数十年前の、人間関係やささやかと思える人生のつまずきを、心に重く引きずっている人も少なくありません。
<落ちこぼれ>とか<負け組>という言葉をしばしば見聞きします。きっとこうした言葉を使いはじめた人は面白がって使ったのではないかと思います。たぶん、そうした現実には縁のない人が使ったのでしょう。渦中にある人に、そういうまねは出来ないはずです。しかし人生において何かに<転落>すること、問題に<敗北>することは決して珍しいことではないと思います。人間は<転落>や<敗北>からこそ多くを学びます。それは個人でも、国家でも同じことです。(いま、日本という国が世界から尊敬されないどころか、相手にすらされなくなりかけているのは、過去の戦争犯罪という<転落>を隠ぺいすることに力がはいっているからです。)
気をつけなければならないのは、まれに、胸をはって「わたしを信じなさい。」と人々に呼び掛ける人が現われることです。『××人を抹殺せよ』民族浄化政策はアジアで、ヨーロッパで、アフリカで今でも止むことがありません。そのたびに信じられないほど多くの人々が犠牲になります。人はなぜかそう叫ぶ指導者に、何か霊にでもつかれたように理性を置きざりにし、集団ヒステリーに陥り、従ってしまうのです。
ペトロを初めとする12使徒はやがて地上に出現した教会を背負って、人々を指導していきました。でも、まさに彼らは<落ちこぼれ中>の<落ちこぼれ>でした。ユダのように自らの失敗を恥じて、首をくくる勇気もなかったのです。それはそれで正しい態度でした。人間は死ぬ勇気だけは持ってはならないのですから。12使徒と言われる人々は、神に信頼などかけられるはずもない人々でした。
ところがその12人に、イエス・キリストは<わたしの証人になれ>と宣教に遣わし、キリストの身体である教会の指導を託したのです。イエス・キリストの命令は非常識で、デタラメとさえ見えるものでした。しかし、信頼されるはずのない人々が、そのように信頼された時、彼らははかり知れない神の愛を、受けとめざるを得なかったのです。愛されることは、力になります。ましてや神から愛されることは、はかり知れない力を、人に与えます。どんなに多くの弱さを持ったものであっても、キリストに愛と期待をかけられると、不可能が可能となるのです。
弟子たちに起こったことは、形を変え多くの人々に起こりました。何かの理由で人生に失望している人がいるかも知れません。心痛んでいる人こそ、キリストの愛を受ける資格があるのです。
(2005年07月31日 週報より)