人の心が神に変えられてこそ
聖書の冒頭に、アダムとエバ、長男カインとその弟アベルという、人間の最初の家族の物語がしるされます。そしてカインとアベルは争いあい、兄は弟を殺した。そこに人間とは争いあい、殺しあう存在だとほのめかされているようです。先週あるニュースが伝えられました。厚労省によると全国でこの10年間でに546人の児童が「望まない妊娠」を理由に、実母による虐待でなくなっているというのです。年齢別では0歳児が240人。うち111人が生後一か月以内に犠牲になったとうのです。そのうちの94人が生まれて24時間以内に死亡していた。
むろん母親だけが悪いのではありません。女性をそこまで追い込んだ男性の責任は圧倒的に大きいのです。親、しかも母親がそこまで追い込まれるという事実に驚愕するのです。子供が与えられる。そのことに親も周囲の人間もこよなく喜びを感じ、祝い、待ち望むものです。病院から、母親と、生まれたばかりのみどりごを連れてくるときの高揚感は言いようのないものです。ところがそうでない人々が何百人もいることに衝撃を覚えます。人と人は愛と慈しみでこそつなげられるものです。けれど現代は親が子供を殺し、子が親を殺します。祖父母が孫を傷つけ、孫が祖父母を傷つけることも稀ではありません。殺人事件の過半は家族間のものといわれます。人間以外の動物は、争っても同種の動物は殺さないといわれます。
イエスキリストの最初の奇蹟はカナの結婚式の席上で行われました。<ブドウ酒が足りなくなった時>でした。ワインは喜びあふれるしるしです。人間の愛は一瞬にして枯れ果てるかもしれない現実です。その時、愛は呪い・憎いしみにひっくりかえるのです。愛してるからこそ、憎しみに転ずるのです。愛した分ほど、憎しみと呪いは深まるのです。それは人間の愛の限界です。だからこそ人はイエスキリストによって、心に愛が創造されなければならないのです。創造とはイエスキリストによって、無から有が造り上げられることです。心の中に愛が創造され、そこに和解の心が生まれます。そこではイエスキリストによって憎しみや被害者意識から解放され、冷静に自らの心の状態を見つめることが可能になるのです。
憎悪の感情と被害者意識は不思議につながっています。われわれの前の世代の人々にとっては、アジアの人々(主には中国、韓国の人々)への被害者感情を持っていました。しかし明らかにそれは過(あやま)ちで、われわれ日本人こそ加害者だったのです。恥ずかしいことにその被害者意識が冷静に事柄を見つめさせる視野を失わせ、より強烈な加害を作っていったのです。
私たちはあらためて不幸な加害の歴史にピリオドを打って、和解と友好の関係を造り上げたいのです。その為にはキリストによる新しい出会いを欠くことができません。人の心はサタニックな地獄を作り出すとともに、神の創造の場となることできます。人はこの神の前に歩んでこそ、人間的な歩みが可能になります。
(2014年09月21日 週報より)