荒野の旅
ユダヤ民族の存在とその歴史があってこそ、キリスト教の歩みがあります。現状のイスラエル共和国は日本と比較すると国土は10分の1以下ですし、人口もイスラエルにおいて700万人、そして欧米に約同数の人々が在住しているようです。しかしユダヤ人の存在感は<現実の少数者>としての数字では到底推し量れないほど大きいと思います。思想、芸術、文化の分野における世界的影響力は、日本と較べ圧倒的に優れていることはあきらかです。
そのイスラエル民族の形成に画期的出来事だったのが出エジプトの出来事です。それは紀元前1500年ごろといわれています。学者によってはエジプトで奴隷であった集団が、出エジプトの出来事をへて、一つの共同体を作り上げていったと考えるようです。しかし出エジプト記が現在の形に整えられたのは捕囚後紀元前6世紀の頃と言われます。なぜ千年近くも経過した後で、あらためて民族の起源を書き上げねばならなかっただろうと不思議に思います。イスラエルはバビロニヤ捕囚からの解放を果たし、いかに民族を再生すべきかの過渡期にありました。立ち返るべきは<エジプト的><バビロニヤ的な>独裁権力ではなく、この世的権力志向からの独立と、聖なる神への服従の宣言でした。
振り返れば、かつて荒野を彷徨したイスラエルの人は<荒野の神の民>であるより<奴隷であったエジプトの肉なべ>を欲したのでした。人々は魂の自立よりも、胃袋が満ち足りることのほうが大切だったのです。食べ物と金さえあれば何を代償にしてもかまわないという心根にすら落ちていました。
やがて捕囚から解放されて帰還した故郷はなつかしくあっても瓦礫のまま放置され、それは生やさしい現実ではありませんでした。しかも人々はバビロニヤの贅沢に慣れきってもいたでしょう。崩れたエルサレムの城壁、崩壊したままの神殿は、荒野の砂漠にも似た現実でした。人々がまず取り掛かったのは当然ながら彼ら自身の家の建設でした。またそこに置き去りにされていたカナン人、サマリア人は数十年の定住を経て、小金を抱えていました。背に腹は変えられません、そうした異邦人との、いわば金目当ての、愛の無い、心のない結婚生活を受け入れた若者たちも少なからずいたのです。
モーセとともに荒野に踏み出すか、エジプトにとどまるかは、人々の意向に委ねられたでしょう。最初からエジプトにとどまろうとした人々にクビに縄をつけて引き出すことはできません。でもその人々はエジプトの豊かな生活の中でエジプト化し、エジプト文化の中に埋もれていったでしょう。いっぽう荒野の生活にあえて踏み出した人々は、少ない食べ物、飢えと、自らの中にある人間的弱さに直面し、来る日も来る日も忍耐を学ばねばなりませんでした。しかしその生活こそ、彼らが神の民となる大切な訓練のときでした。民にとって荒野こそ、神とのつながりを生きる場でした。荒野においてこそ、神と交わり、神とのきずなを強める機会だったのです。人には耐えねばならない荒野があります。しかし旧約の民はそこで神の民と変えられてゆきました。私たちも、こころに荒野を抱えます。私たちもここで神の民になります。
(2013年09月22日 週報より)