信じてここに生きる

「暑さ寒さも彼岸まで」と言う言葉があります。季節としては、一週間後に、秋の彼岸を迎えます。例年この季節になるとあちこちに彼岸花を見ます。ことしはこの暑さの中で、はたしてどうなることだろうか。それにしても八月の<お盆>九月の<彼岸>と日本人は伝統的に人の死を悼まないわけにはいかないのです。2年前の東日本震災では15,000人を越える人々の死者を出しました。9月1日の関東大震災を記念する番組では当時、東京で10万5千人を越す人々が犠牲となったと伝えられていました。しかも過去において東京直下型の地震は70年周期でおこっており、前回の関東大震災からすでに90年が経過しており、プレートのひずみから地震はいつ起こっても不思議はない状態と説明されました。その上、地震とともに富士山が噴火したことも、過去には繰り返されているとか。つまりそこには途方もない人々の命がじつは失われていたのかもしれない。わたしはこんな大切なことを今の今まで知らなかった。もしかすると日本人の心の風景の中には、そうした過去の災害に直面して失われた人々への追憶が<お盆>や<お彼岸>という季節の通過儀礼という形につながってきたのではないかとさえ思わせます。

そうした自然環境の中で私たちは<この日>を生きています。いな、生かされているというべきです。思えば1995年1月には阪神淡路大地震で、神戸においては高速道路が横倒しになったのも忘れられません。そうした社会に生きながらなお、ひとは人生の目的を、金儲けとか自分の楽しみだけかのように思い込んで、世の中は自分の都合に合わせて回っていくものかのように、いつの間にか思い込んでいるフシもあります。

そうした社会の中で私たちは神の支配や介在を深く信じています。それを愚か者の生きかたのようにせせら笑う人もいるかもしれない。人の命はいつ終わるかも知れないはかないものですが、同時に神による永遠のいのちにつながっています。ただ、ひとの人生は、はかないだけのものではありません。人は永遠にむかってこの日を生きています。キリスト者は、神の目の前に生きる生きかたを意識します。キリスト者は、少なくも、人をだましませんし、他者を、神の使者のようにいつくしみ、重んじます。

私たちのつかの間のように見える現世は。永遠につながっています。私たちはこの人生に他者への愛や正義や真実をできることなら実現しようと願います。それは何とかしてイエスキリストの御こころにかないたい、と望むからです。信仰に生きるのは、信仰の結果のご利益を得るためではありません。中心が定まってこそ、円は周縁を描くことが出来ます。キリストを心の中心にすえてこそ、キリスト者の歩みが定まります。視点を定めてこそ、見るものがはっきり目に映ります。信仰に生きてこそ、困難に満ちたここで、堂々と生きてゆくことができます。

(2013年09月15日 週報より)

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