トミさんを見送る
1990年から約10年ほど由木教会でともに過ごしたI本(Iもと)トミさんは先週日曜日夕刻7時に天に帰られました。翌日お目にかかれることを期待していた私たちは落胆・悄然とするなかに、荷物の中に喪服を用意したのです。那覇空港から教会に着くとすでにご遺体は講壇前に安置されており、早速対面したのです。すると涙にくれた夫のI.Y氏(78歳)が「小枝先生夫妻がお出でになるのを大変喜んで待っていたのですが、力尽きて・・・」と語り始めたのです。Y氏とトミさんは、与那国島で幼い頃からの知り合いで7年前に再婚されたのでした。
思えばトミさんは並外れた愛の人でした。幼い子供を持つF氏に深く同情するすることをきっかけに結婚を決意し、F氏の母親コノさんの介護も全うし、最晩年のコノさんに私は訪ねるたびに信仰の奨励をお話させていただきました。またトミさんの弟さんのお子さんであるN.Nさんを、ある事情から生まれて間もなく引き取り、Nさんは今の今でもトミさんを「おかあさん」と呼び続けています。3年前にトミさんの胸のガンが判明してからは、直樹さんは住まいを相模原から那覇に移して、介護や支援に全力を注いできました。
由木教会にはトミさんが置き土産にした大なべやずんどう、何十枚ものお皿や食器が今でも現役です。わが家で食事をするごとに使っているお皿もトミさんがプレゼントしてくださったものです。彼女はかつて由木にいたとき、そうした調理道具を使って魔法のようにごちそうを作ってくれました。なにかの折には私も狩出されて、相模原の西門市場まで運転させられて、目いっぱい新鮮な材料を購入して、事あるごとに私たち教会員やお子さん達、またバザーなどに沖縄のサーターアンダーギーや五目ずしをいっぱい作ってくださいました。
それは周囲の人々への愛や献身と並んで、教会に集っている人々への愛の表現だと思っています。教会に集う人々は、何らか目に見えること、あるいは他人の知らない範囲の中で、無償の愛と献身を発揮します。トミさんにとってそれは他者に振舞うことでした。トミさんの手づくり料理は愛そのものでした。食べた人は、お腹がいっぱいになりましたが、満たされたのは胃袋だけでなく、心が満たされたのです。私たちは愛を食べさせていただいたのです。ですからそれは心を養い、心に残ったのでした。
愛はいつも報いられるとは限りません。報いられないからこそ、愛だといえないこともありません。夫と夫の家族に尽くしに尽くして、結局、トミさんは一人になりました。傷心のトミさんの前に現れたのは3歳年上で、幼なじみの入慶田本さんだったのです。7年間の結婚生活は穏やかな日々であったようです。それだけに80歳近い男性であるI氏はトミさんを失った悲しみで涙が渇くことがないのです。悲しみの深さは愛の大きさ。葬儀においていつも感じることです。
人生にはつらいこと、理解しがたいこと、不条理としか思えないことが多いものです。でもトミさんはそれまで払った献身や愛のおおきさほどの安らぎと愛を得たのだろう。I氏の涙で私はそう感じ取りました。
(2013年04月28日 週報より)