信仰に生きる
キリスト者であること、キリスト者として生きることは、だれにも強制されないし、自由で、喜びを心から確信できる道があります。ただ、そうした自由と喜びには代償があります。つまり「いかなる状況が発生しても基本的な生き方をひるがえしてはならない」ということが求められます。ときに国家や権力者が、個人の自由や良心の領域に踏み込もうとする時、なお掲げた生き方にとどまろうとすることは大切なことです。
1968年にチェコにおける自由化革命を圧殺するために、ソ連軍を中心にしたワルシャワ条約軍の戦車隊がプラハを中心に、チェコスロバキア全土を踏みにじりました。当時、チェコスロバキアでは自由化宣言である「二千語宣言」に多くの文化人やスポーツ選手が署名していました。今ではどうか分かりませんが、その時代、成人である日本人なら、体操のスーパースターであるチャスラフスカヤさんの名前を知らない人はなかった。彼女も二千語宣言にザトペック(人間機関車の名前で記憶されていた高名なマラソン選手)とともに署名したのです。その年メキシコで行なわれたオリンピックで、チャスラフスカヤは四つの金メダルをチェコにもたらしました。政府はオリンピック後、ザトペック、チャスラフスカヤに二千語宣言の署名撤回を迫りましたが二人ともそれを拒絶していました。日本の小学校や中学校の歴史教科書にも写真入りで登場したザトペックは、その後、自由化実現まで井戸掘りとゴミ集めの仕事で21年間生計を立てねばなりませんでした。チャスラフスカヤは、オリンピックから帰国して何の歓迎もうけず、追放されたのです。その日のことを書いています。
『クラブに着いて暗い会議室に入ってみると、そこに待機していた21人の人々の中に、顔見知りはいませんでした。私は期待が間違っていたことをさとりました。連中は腰掛けたまま、立ち上がりもしませんでした。しばらくすると、一人の男が空いている椅子を蹴ってテーブルの前に動かし、「座れ」と冷たく命じました。いくらかやりとりがあった後、委員長は、スポーツ界からの追放を宣言したのです。」(月刊アサヒ誌)
その後突如として起こったソ連崩壊とチェコスロバキアの民主化。宣言に署名した人々は冷遇と差別を甘んじて受け続けた上の突然の出来事でした。彼らは国の変革を望みながらも、それが実現するとはだれも思っていなかったことでしょう。それでも宣言の署名者たちは、政府の強要する署名撤回は拒絶し続けたのでした。プラハの春をもたらした時の首相ドプチェックは営林署の一職員として、ザトペックはゴミ集めを、チャスラフスカヤは全ての特権をはく奪されたままの20数年を過ごしたのです。チャスラフスカヤは言います。「私は、裏切り者や詐欺師になりたくはありませんでした。私は「プラハの春」による自由を信じたまでで、残りの人生をおカネに不自由なく過ごすために、自分に背きたくなかったのです。」
こうした精神の上に今のチェコやスロバキアの現実が築かれています。ふつう、人は社会的地位や金銭の有無だけで、他人を判断します。また、おうおうに、人は真理や信念に生きるのか、それとも金銭や状況に押し流されて、妥協的に生きるのか。選択を迫られます。精神的価値観は、ときおり時の流れの中で変節したり、風化したりします。多くの場合、本人も他人も、それをやむを得ないこととして、平気で生きるのです。
プラハの春から40年近くたちましたが、事件は、人間として生きるということはどういうことなのか、心の奥底に、信仰・信念に誠実に生きることの大切さを、あらためて思い起こさせてくれます。たとえどんな少数者であろうと、正しいことは正しいし、権力に盲従することだけが大切なわけでもない。今週は受難週。イエス・キリストは十字架に向け歩まれた。
(2005年03月20日 週報より)