信仰に報いる主
ルカ福音書7章1-10節
「ただお言葉をください。そして私の僕をいやしてください。」(7節)
「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。言っておくが、イスラエルの中でさえ、私はこれほど信仰を見たことがない。」(9節)と主イエスが大変感心しておられるのです。
主イエスはご自分の評判など気にする方ではありませんが、それでも善意の限りを尽くし、人々を励まし、慰め、いやしを行いつつ、人々は主イエスの心を思いやることはなかった。関心といえば「次はどんな奇跡を見せてくれるだろうか」と言うことです。ご利益は受けるが、その心を知ろうとはしなかった。どんなに落胆することの多かった主イエスかと私は推測しますが、決して落胆はしなかった主イエスです。
この百人隊長、英語ではセンチュリオンと言われている人はたぶんローマ人です。カファルナウムはローマ軍の駐屯地がありましたから、その部隊の百人隊長だった可能性があります。百人隊と呼ばれていますが正確には80人で構成されていたようです。
ただ、ここは必ずしもローマの直接統治していた所ではなかったのです。属領と言います。形の上では、ヘロデ・アンティパスと言う支配者が、かなり荒々しい統治をしていた。この人はあの有名なヘロデ大王の11人の子のひとりです。「有名な」というのは、ヘロデ大王は、主イエスがお生まれになった時、ベツレヘム近郊の2歳以下の子供たち全員を殺したという悪名高い事件を引き起こした本人です。その子であるヘロデ・アンティパスは当然、軍隊を持っていた。百人隊長は、このヘロデアンティパスに仕えていた傭兵(雇い兵)の可能性もあります。
この百人隊長の信仰を見て主イエスは感心されたのです。しかも主イエスは、<イスラエルの中でさえ>『これほどの信仰を見たことはない』と言われたのです。この人は、我々のイメージする軍人像とは、かなりかけ離れた人であったようです。
出来事の発端になったのは、この人が重んじていた部下が病気になったことです。もうすでに、普通の医者の手にはどうしようもないほど重い病状で、神の奇蹟を待つしかない。彼はユダヤ人の長老を主イエスのもとに使いにやって、「是非、あの人の願いを聞いてあげてください。」と言ってもらったのです。この長老は真剣に主イエスにお願いした。「あの方はそうしていただくのに、ふさわしい方です。」「彼はユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれた。」とも言いました。
ユダヤ駐留の百人隊長とユダヤの長老とは、奇妙な取り合わせです。占領軍と地域の代表とは敵同士とも言える存在です。今のアフガニスタンやイラクで、破壊されたモスクを米軍指揮官が自らの費用で建て替えた、というような話はありえません。アラブ人=テロリスト=敵。戦争、占領は、しばしばそうした関係を作り上げます。もっとも、この百人隊長がユダヤ人の会堂を建てるということは、ユダヤ人に対する尊敬と愛があったからですが、当然、神への熱い信仰があったからです。
ヘロデ大王の軍隊は、主イエスの誕生のニュースを聞いて、ベツレヘム近郊の2歳以下の幼子を皆殺しにしました。軍隊はいったん命令が下れば、大量殺戮に手を染めます。しかし、この百人隊長は、命令と権威の中で、やたら威張り散らす軍人とは違っていました。ですから部下が病気になった時、代わりは幾らでもいると言って、部下を見捨てることをしなかった。現代の社会でも、誰かが病気になったら、「ナニ、代わりになる人間はいくらでもいる」と、見捨てる風景はあちこちにあるかもしれない。これが傭兵部隊だったとすれば、士官も兵も働く動機は<かね>です。力づく、金づくの関係が普通はそこにあったはずです。けれど、この百人隊長は力づく、金づくのエゴだけで動く人ではなかった。この人は例外中の例外の人物でした。ことは、ユダヤ人の会堂を建てるとか、友情を越えるほどの暖かい思いがありました。
使徒言行録10:1『さてカイサリアにコルネリウス人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心厚く、一家そろって神を恐れ、民の多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。』やがてペトロが神の示しを受けて、この人に出会い、この人はキリスト者になる。このことから原始教会がユダヤの伝統一本から一歩も出られなかった、姿勢ががらりと変わって、いよいよ世界宗教として広がってゆくそのきっかけをなした物語である。そしてそれはただ時代の変化などというものではなく、イエス・キリストがこのルカ7章で同じご意向を本来お持ちであったということを表すのです。
ルカ7章の百人隊長も、使徒言行録のコルネリウスも、非ユダヤ人で、割礼は受けなかったものの、ユダヤ教の、つまり聖書の神を真実に恐れる信仰者であったようです。人間関係を単に、得か損か、利用可能かどうか、自分にプラスか、マイナスかで判断する人は、いつの時代でもいるでしょう。この百人隊長は、そうではなかった。主イエスにお願いするにしても、最初から武装した軍人をやって、威圧的に依頼することなどしなかった。ユダヤ人の長老にお願いしたのです。
「私のためにわざわざ出向いてくださる必要はありません。私はユダヤ人ではありません。神の民ではないので、あなたを、わが家に迎える資格もないし、あなたのところに行く資格すらないものです。でもひとつだけお願いがあります。私の部下をたたせていただきたい。そのためには、あなたの言葉だけで十分です。あなたのお言葉にはそれだけの力があるからです。お言葉をください。」
軍隊生活の中で、この人は権威の力を知っていた。組織であれば、何がしかの権威、命令系統というものは存在します。そのトップにいる人は、決して無制限の権威が与えられているのでないことを知るべきです。その地位にある人は、従うべき絶対者の存在を深く自覚して、率先してひざを屈していなければなりません。百人隊長はにこの部下が死に瀕している時に、<お前はこの軍隊では不用の人間だ>とか、<死ね>と命じませんでした。むしろ、究極の権威を持つ方を主イエス・キリストに定め、命令、言葉に全ての信頼を置いて服従しようとしました。
現代においても、様々な権威が現に存在します。職場では経理課だったり、営業部だったり、学校や教団だったり、家庭でさえ恐るべき暴力がしつけの名で行使されたりします。小さな権威をいったん手にしてしまうと、信じられないごう慢さを発揮したりするものです。
人はしばしば、多くの所で壁を作ります。日常目にするのは劣等感や優越感から来る心の壁です。劣等感と優越感は実は一つのものだと言われます。アジアと日本を隔てる歴史観の壁というものもあります。すでに崩壊しましたがベルリンの壁があり、東ドイツの秘密警察が教会の中にさえ網の目のような情報網を張り巡らし、人々は見張られていました。パレスチナでは新たな巨大な壁が、イスラエルとパレスチナを分断しています。この百人隊長は、占領軍と被占領地の人々という越えがたい壁をらくらくと越えています。むしろユダヤの人々への深い尊敬があります。その意向を受けたユダヤの長老は、主イエスに癒しを依頼するのです。この長老も、ユダヤの支配階級と主イエスとの間に横たわっていた壁を乗り越えているのです。
この越えがたい壁を越えさせた主役は、百人隊長ではなく、主イエスなのです。
たしかにこの百人隊長は自由でしなやかな生き方をしていたのですが、この生き方を見抜いた主イエスは、この人以上に、資格や条件や、状況に支配される一般社会とは違って、信仰による救い、信仰による突破を生きておられたのです。
7章は 1) 10節までの百人隊長の部下の癒し、2) 11-17節のナインのやもめの一人息子の復活、3) 36節からの罪深い一人の女性が壺に入った高価な香油を注ぐ出来事が書きつらねられます。
それぞれ 1) 外国人(しかも軍人)、2) 貧しかっただろうやもめの唯一の生きがいだった若者の死、3) 罪深い泥沼のような罪にもがいていていただろう女性。
ここには共通するテーマがあります。つまり、だれもがもう超えられるはずはないと思えるような壁があるのです。民族的な憎悪、貧しさ、この人は救われるはずはないと思われていた娼婦であろう女性。常識では、神の救いに与るには絶対に不適格と思われている人々です。百人隊長は当時のユダヤ教を重んじる信仰者であった。でも洗礼を受けたキリストの弟子ではなかった。いわゆる正統的な信仰には全く無縁であっただろう。子どもを死から取り戻していただいたやもめは信仰者だったか? イエスはそんなことは問うこともしなかった。主のもとに来ようとする人に、主イエスは条件を突きつけない。あるいは主イエス自らお出かけになる。その主イエスを拒みさえしない人には、到底、人間の地平ではありえない救いを実現させられるのです。
信仰は形に表れるものでは誰も判定できない。たとえ、何らかの理由で娼婦に身を落とした女性であっても、人生で唯一の宝である息子を失ったシングルマザーでも、人生はもう終わってしまったと思う必要はない。人生の輝きを取り戻したい。自分の主イエスによって人生を取り戻したい。切に切にそう願うなら、主イエスはこれを可能にする。信仰と祈りを取り戻すなら、必ず新しい人生を歩むことが出来る。
2023年5月14日 礼拝メッセージより