イエスよ私を思い出してください
ルカ福音書 23章 35-43節
主イエスが十字架につけられる出来事を、それぞれに福音書の記者が書きます。マタイ福音書、マルコ福音書を見ると主イエスは周囲のあざけり、侮りの声に加え、両脇に十字架につけられた犯罪者達にも罵られたと書かれています。ルカ福音書においても、民衆はイエスを罵ります。議員や兵士もイエスを嘲ります。ところが犯罪人の一人が「お前はメシアではないか。自分自身と、われわれを救ってみろ」(39-43)と言ったと述べられています。するともう一方の方が「お前は神をもおそれないのか、同じ刑罰を受けているのに。われわれは自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と言い、そして、「イエスよ、あなたの御国にお出でになるときには、私を思い出してください。」と言った。マタイ・マルコ福音書にはない主イエスのいわば最後の救いの物語が語られます。
「私を思い出してください」
この何の善行もしたことのなかった犯罪人の発した言葉は、余りに印象的です。これはラテン語で、リコルダーレだそうですが、その後の教会の礼拝の中で、繰り返し、繰り返し、祈りの言葉として伝えられてきました。そしてレクイエムの中では、ミサ成文として、どれほど多くの作曲家が、自らの救いを祈りつつ、音楽にしたことでしょう。「私を思い出してください。あなたが御国の権威を持ってお出でになるときに、私を思い出してください。」
思い出していただくもなにも、犯罪人には、主に思い出していただける功績も、善行も、業績もないのです。「でも・・私を思い出してください。」
「お前はメシアではないか。自分自身と、我々をすくってみろ」。確かにこれは罵りの言葉として聞こえます。しかし十字架につけられながら、なお「自分の生涯は何だったのか?という必死な問いかけと受け止めることが出来ます。人はだれでも、まじかに(真近)に迫ってくる死の足音を前に、自分の人生は何だったのかを思うはずです。むろんそれなりの社会的業績や働きを果たしたという人もいるでしょう。しかし死という究極の終わりを前にして、自分の人生は何だったのか、自分は何のために生きてきたのかを問われて、確かな答えを答えられる人は多くはいないでしょう。
この犯罪人はまず<自分自身を救ってみろ>と言いました。民衆も言いました(35節)。兵士も言いました(37節)。これは主イエスへのあざけりの言葉の一つです。ですが、実のところ民衆は救いを求めていた。兵士も救いを求めていた。でもその救いには程遠い彼らの現実の表現です。
自分を救ってくれる誰か、社会、国家は、どこにもいない。
わたしたちが周囲を見回す。この日本社会の中で、わたしたちが生きていく。少なくともこの社会の中に、自分の内にも、社会や制度の中に、われわれという存在を支える土台は見当たらないと思います。
犯罪人は言いました。「あなたの御国に(権威を持って)お出でになるとき」。
口語訳では権威と言う言葉がついていました。この人は犯罪から犯罪に生きてきた人。それが行き着いて死刑にまで立ち至った。死を前にしているけれども、今まで善きことは何一つやってこなかった。彼には何のとりえもない。善なるものの何の土台も、根も張ることなく、この時をむかえてしまった。それは何も生きた証しを持たないということです。しかし、この主イエスの言葉に、この本当の言葉に根を張ることが、今、出来た。この犯罪人は嘲りと苦痛を耐え忍ぶ姿の中に、イエスの真の姿を見出したのです。そこで主イエスが言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしといっしょに楽園にいる。」
この十字架の上で、ありえないことを言えるわけもありません。そして、これはたった一人、この犯罪人に言われた言葉でなく、すべての人々に言われた言葉として、教会は聞いたのです。
人生には様々な良いこと、楽しいこと、意味のあることがあります。しかし自分自身を人生の土台においているときに、本当にそれでよかったと、深く納得し、安心して人生を終われるのでしょうか。
人生には長短が確かにあります。しかし本当にこう言われる主イエスに人生の根といいますか、土台をおいてこそ、わたしたちは神の命に根を張ることが出来る。そのとき、わたしたちは自分の人生をこれでよかったと心から受け入れることが出来ます。パウロは、「神の恵みによって今日のわたしがある」(1コリント15:10)と言いました。
たとえ人生の最後に一瞬でも、主イエスを受け入れた人生は、空虚でなく、神の恵みに包まれた人生となるのです。今、原発の問題、その不安が日本だけでなく、世界を包み込んでいます。わたしたちを囲むのは不安でしょうか、空虚でしょうか、それともイエス・キリストにある神の恵みでしょうか。
(2022年11月20日 礼拝メッセージより)