平和を祈る

人は今さし迫ったさまざまな問題や人間関係、将来のこともふくめ、さまざまな願望を心に抱いて生きています。直面するそうした問題や願望が次々と解決するなら人生はさぞ楽なものでしょう。でも世の中にそんな人は一人もいないでしょう。努力し、苦悩し、身の細る思いをし、時にはやけ食いし、心の飢餓感を埋めようとしたりします。自分の限界を覚えた人は祈るのです。ただ祈りにも二つのあり方があるように感じてならないのです。

自分の願望がひたすらにかなえられるようにという思いと、キリスト教的な祈りには、多少の違いがあるように思います。神社やお寺のは<商売繁盛、家内安全、無病息災>のご利益を売りものにします。恋愛成就とか、入試突破などを専門に(?)面倒見てくれるお寺さんがあったりします。求める人はワラにもすがる思いで願うのですが、一歩引いて考えれば、こんなに人間の弱い感情を利用した宗教は、詐欺一歩手前のような思いもします。自らの願望を並べて大願成就を求める思いと祈りの違いはどこにあるのだろう。

キリスト者の祈りは<イエスキリストの名によって>なされます。そこにはイエスキリストの御意志である求めがなされねばならない。かつての戦争時において<皇軍のための戦勝祈祷会>なるものが行われたと聞きます。かつての日本の軍隊は中国で、全アジアでイエスキリストの御意志を反映した活動をしたのだろうか? そこで行われた戦争犯罪をわれわれはいまだに謝罪しつつ、それでも被害者の感情はいまだにおさまるときを持っていない。あれが祈りだったのだろうか?
他方で、ヒロシマとナガサキに原爆を投下するミッションをになったエノラ・ゲイ号という原爆投下機であるB29爆撃機。わたしはこの飛行機の現物をオハイオ州のデイトンにあるアメリカ空軍博物館で見たことがあります。南太平洋のテニアン等から発進するこの飛行機が離陸に失敗したら、島全体が吹っ飛ぶ可能性があったそうだ。米軍幹部たちは「なんとしてもこのミッションを成功してほしい。」そう願って、一人の従軍牧師にミッション成功のために祈ってもらったそうだ。
「この機が、広島・長崎の上空に無事到着して、原爆投下の使命が果たされ、成功しますように!」
日本で祈られた皇軍戦勝祈祷会。テニアン島で祈られた原爆投下成功への祈り。これらはイエスキリストの名前で祈られる、イエスの御意志だっただろうか。答えは完璧にノーです。

私たちはこのクリスマスに何を祈るべきなのだろう。<救い>や<きよめ>だって、自分のためだけなら、非常に宗教的に見えてもエゴイズムに落ちるほかはないだろう。いかにエゴから、他者に向かい得るのか。誰かの平和実現のために生きられるのか。私に響いてくるのはフランチェスコの祈りです。

わたしをあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、・・・

軍靴に踏みにじられ、いまだに拷問下にあるビルマの僧侶たち。闇から闇に連行され二度と戻ってこないチェチェンやイラクの市民たち。アジアやアフリカで嘆きと悲嘆にくれる数え切れない人々。世界の人々とともに平和を祈ろう。自分のことは後にして。

(2007年12月16日 週報より)

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