真冬のツルニチニチソウ
世界中がふるえあがるほどの寒波が押し寄せています。それでも東京はまだ楽なのかもしれませんが、暖房が当然のような暮らしをしている、わたしのようなヤワな人間にはこたえます。教会建物の裏側は敷地の中でもっとも寒いところです。隣地とは段差や塀などもあって一日中、ほとんど陽がさしません。寒い風だけが通り過ぎて生きます。
先日、温水用の石油タンクに給油していたところ、ちいさな可憐な紫色の花が、その寒風通り過ぎる場所に、たった一本だけ咲いていたのです。驚きだったし、深い感動を覚えました。花のことには特に知識ゼロの私は、早速連れあいに花の名前を聞いたのです。<ツルニチニチソウ>がそのこたえでした。(後で聞いたらインターネットで調べたそうです!) この花は春になるとかなり群生して咲くのだそうです。それも私は知らなかった。でも、とにもかくにも、他の花全部が、死に絶えてしまっているのに、たった一本だけ、しかもその時は、凛とまっすぐ上にむかって、つるを伸ばして一本の花を咲かせていたのです。物言わぬ植物ですし、自分はがんばって寒さに負けないでガンバロウ等と、自分に言い聞かせていたわけではないでしょう。ことによると一本だけ生き残れる何らかの条件が備わっていたのかもしれません。たとえば寒風の通り道から微妙にまぬかれていたとか、石油給湯器のおかげで、少しは寒さをしのげることができていたとか。それでも一本の紫色の小さな、小さな花が咲き続けたことは、わたしにとっては、重ねて言いますが驚きと感動だったのです。
最近は希望が途切れることがともかく多いのです。誰しも自分から希望を捨てる人はいません。厳しい北風に耐え切れなくなるのです。聞こえてくるのは「ガンバレ!ガンバレ!」の大合唱です。でもあまり心の荷重が重すぎて、ゴムであれば、伸びきってしまって、本来の役割が、果たせなくなります。日本という<がんばって当然>の社会の圧力が、人間として生きることを難しくしています。
でもあのツルニチニチソウはどうして花を咲き続けることが出来たのでしょう。次のように言うことはできます。花は自分で咲こうとしてがんばったのではないはずです。でも花も生きています。命を保っていると言うことは、命をあたえた神が、花を生かし、育て、花を咲かせます。神が生かしたからこそ、あの残った一本が咲いたのです。
わたしたちが生きていると言うことは、生かされているからです。毎日が生かされているから、日常の歩みがあります。楽しい日もあれば、 苦しい日もあります。でも神が生かしてくださっているなら、いずれもとうとい一日です。今日という日は70年、80年の生涯の、たった一日しかない特別の日。誰からも見られなくてもいい。目立たなくてもいい。でも自分なりに花を咲かせよう。その小さな花を見て、わたしが深く感動したように知らずに誰かを感動させているかもしらない。花はどんな花でも、とても、とても美しいのだから
(2010年01月17日 週報より)