平和を生きる

今週は広島・長崎の原爆記念日を迎えます。今日は由木教会では<平和聖日>礼拝をもちます。今年の平和聖日はいくつかの平和の危機を示す現実が先行しています。つまりアフガニスタンで、韓国教会の医療ボランティアチーム20人が、タリバンに拉致連行され、すでに二人の方がむごくも殺害され、残る人々の一刻も早い解放が求められています。イラク、アフガンの現実を読むことができなかったのかという批判が一方にありますが、それほどに流血と人の命が造作もなく扱われるようになってしまった戦争の現実があります。またイラク戦争においては、日本も無縁ではありません。日本自衛軍による空と海からの軍事支援活動が継続中です。また国内においては<戦後レジームからの脱却><憲法改定>を声高に語る安倍首相による性急な戦後否定が進行中です。

最近心が痛むことは、社会における効率化がますます求められ、これに答えることのできない人々の切捨てが進行しつつあることです。病気や怪我で生活保護受給者の人々は、延長が認められず抗議の意味を込めた自殺、餓死による孤独死などが報告されています。効率がもっとも重んじる社会は軍隊です。かつての戦争でも、軍隊の作戦行動について行けなくなった兵士たちは南方のジャングルにうちすてられていきました。

もっとも効率的に組織を動かすためには、組織はピラミッド型に作られ、上の指示は絶対的な力を持つのです。しかもそこには、その組織だけに通用する都合や利益が最優先されるのです。そこで行動が社会や世界や公益にかなうかどうかは、必ずしも省みられないことも多いのです。トップと言ってもただの人間ですが、そのほかならぬトップが暴走してインサイダー取引で不正な利益を得たり、どう見ても勝つ見込みのないアメリカとの戦争を画策するとき、ピラミッド組織においては、部下が異議を唱えることのできないのです。かつての日本帝国の過ちは、そうした非人間的な上下組織に基づくものでした。そしてそのときのピラミッドの頂点には、本人も意識したかどうか分かりませんが現人神なる偶像があったのです。1942年6月26日、日本全国のホーリネス教会の牧師が特高警察に、収監され、問われました。「キリストと天皇陛下とどちらはえらいのか?」このおろかな問いに答えて6人の牧師が警察で撲殺(殉教死)されたのでした。

ことは、人を社会の役に立つ人間かどうかを、効率だけで判断してはならないと言うことです。高齢となり、体力の後退した老人を社会の邪魔者扱いするような社会であってはならないし、そうした見方をする若者を育ててはならないのです。人間をピラミッド的な効率的価値観で見るような生き方は、社会の死を招くでしょう。年をとらない人はだれもいないのですから。
でも、そうした見方を越えるためにはやはり正しい宗教観が必要なのです。神が正しく神としてあがめられるところに、人が互いに作られたものとしての平等性や、連帯性やいつくしみが生まれるでしょう。歴然とした高齢化社会の到来と言われる時代に、効率優先とはまったく矛盾している現実です。人にはかくあるべしとわかっていても、目の前の現実に振り回されて実現できないこともしばしばあるのです。心静かに神を見上げて、われわれはいかに生きるべきかを、もう一度問う必要があるかもしれません。

(2007年08月05日 週報より)

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