神の声を聴こう
人は年齢をつみ重ね、肉体は衰えていくが、精神は年齢にふさわしく成熟を遂げていくものなのでしょうか。仏教なら煩悩というのでしょうか。人の心にある野心、欲望も年齢とともに、果てて静まっていくのでしょうか。野心や欲望は生の原動力のような働きもあり、一方で、生きる力を与えるものでもあるでしょう。しかし、他方、それが人の精神を卑しくしたり、心の奥底に秘めてあるものが露見したりすることもあります。
列王記上の3章に、ダビデ王の後継者としてソロモンが登場します。すでにダビデ王によって確立された王権は確固としたもので、ソロモン自身その聡明さは周囲の国にも知れ渡るほどのものでした。その時点では、彼は神を愛し、父ダビデの敬虔さをそのままに引き継ぐのです。そしてある夜、夢の中で神が現れ、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われます。普通のつまらない王なら、「更なる権力と統治力を」とでも言ったところでしょう。しかしここでソロモンは「私は取るに足らない若者でどのように振舞うべきかを知りません。・・・どうか善と悪を判断することが出来るよう、この僕に聞き分ける心をお与えください。」 この答えを神は喜ばれたのです。ソロモンが自分のために長寿を求めず、富も求めず、敵の命も求めなかったからです。神はソロモンに知恵と、繁栄と、富と、栄光を約束するのです。
人の心には様々な声が聞こえてきます。良心の語りかけ。自分のエゴにもとづく自己都合の声。批判者の声。神の語りかける声。人が常に真実な声に耳を傾け続けるとは限りません。良心を曇らせて、正しい声を聞きそこなう誘惑は常にあります。善なるものを選択し、悪を退けることは、人間として当然の感覚と思います。しかし、人は<かくなすべし>と考えることを常に実現する存在ではないのです。罪・欲望・野心が人の心を曇らせるからです。
他人の愚かしいあやまちについて非難することは簡単です。しかし人はとっさの判断の違いからでも、取り返しのつかない過ちを犯すこともあると思います。新聞の事件記事で<ふと魔が刺して>という弁解を見ることがあります。ソロモンが<聞き分ける心を>わざわざ神に求めたのは理由があります。人がより理性的に生きるためには神が必要なのです。神にむく心を保ち続けること、ひと時も途絶えることなく、自分自身を保っていくためには、われわれは信仰が必要なのです。
そのときの心の嵐を静めるために教会にくる人もいます。それはそれで意味のあることです。けれど当然ながら心の嵐が静まると教会から姿が消えます。台風一過、それはそれで周囲も、ご本人もほっとするのです。しかし人の心は次から次に様々な嵐が吹くのです。キリスト教信仰は人が生涯をかけて心向けていくものだと思います。人生のひと時を神に心向けることが意味なしとは思いませんが、やはりこれからの生涯を神と共に生きるべきなのです。
優れたカリスマ的なリーダーと言われる人が節を曲げることだって珍しくはないのです。ソロモン王のその後はどうだったでしょう。結局、神の声を聞き分ける心を保ち続けることは出来なかったのです。経済的な繁栄を手にすることは成功しましたが、イスラエルのよって立つ拠点である神への信仰をないがしろにしたソロモンの姿勢は、イスラエルの崩壊に道を開いてしまったのです。ソロモンを笑える人などどこにもいません。人はそうした傾向を持っているのです。だからこそ、大げさに言えば、迎える一瞬一瞬を、この心を神に守っていただけるよう、神に祈るのです。神の声を聞こう。神の思いに沿って生きよう。
(2007年07月22日 週報より)