フェミニズム神学

聖書には互いに反するような表現が、しばしば見られる。

男女の性別と性役割を一致させる家父長制倫理を強化するような言葉 (「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。」テモテ2:11-12)に対して、キリストにおける平等性の指摘 (「…男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」ガラテヤ3:28)、あるいは逆に産む性の賛美に対して信仰の優位を説く言葉(「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」ルカ11:27-28)などである。どのような文脈で述べられているのかという点について、読み解くことが重要である。

翻訳の問題も大きい。イエスによって癒されたシモン・ペトロのしゅうとめは、イエスあるいは一同を「もてなした」とされているが(マタイ8:15など)、ここで用いられている動詞 diakonevw は、天使や弟子たちに用いられるときには「仕えた」と訳されているという。「仕える」と「もてなす」では、微妙でしかし大きな違いがある。日本語の「もてなす」にはどうしても「ご馳走する」といった食事などの提供あるいは「世話をする」といった母親的なイメージがつきまとう。名前も伝えられていないこの女性は、単にイエスたちに食事を作って「もてなした」のではなく、イエスによって癒された一人の弟子として彼に「仕えた」のではなかったのか。

指導する者(リーダー)は常に男性であり、援助する者(サポーター)は常に女性である、というのが、家父長制の規定する性別と性役割の一致主義である。聖書を書き記した人々も、その後に教会を形成していった人々も、そして現在の私たちも、こうした父権的価値観に囚われている。カトリック教会ではあれだけ聖母マリアを崇拝しながら、なぜ女性の聖職者(女性神父ならぬ「神母」?)が存在しないのかといった疑問もこうした事柄、奉仕と説教を分離して考える価値観と無縁ではない。

日本という国は、性差別が特に著しいと言われる。先日も国際機関からの是正勧告が新聞で報道されていた。曰く、企業における管理職(社長)や政治家(国会議員)、審議会委員や医師、裁判官などにおける男性に対する女性の割合の低さ。こうした割合を高めること、すなわち女性の社会進出を推し進めることが要請されている。もちろん、こうしたことは必要であろう。しかし単にこうした分野でもっと女性が増えれば、それで問題は解決したと言えるのだろうか。

ある見方からすれば、こうした女性の「社会進出」は、単に「男性社会への女性の進出」、もっと言えば「男性原理を体得した女性の割合が増大する」だけで、根本的な問題の解決にはならないとされる。これらは現在ある男社会の強化にこそなれ、真の「男女均等社会」には成りえない。なぜなら、ここで取り上げられている職業は、すべて支配階層ばかりで、非正規雇用とかアルバイトといった職域は視野に入っていないからである。医師免許を有する人々に占める女性の割合は問題にされても、看護士における男性の割合が問題にならないのは何故か。女性裁判官の数が問題とされても、その裁判所でお茶汲みをしている人たちの性別割合が問題にならないのは何故か。

そこには、人生の成功とは偉くなることといった出世主義、すなわち偉い人は立派で下っ端は使い捨てでもしょうがないといった社会的な地位と人間的な価値を同一視する職業差別が作用していないだろうか。現在の社会で偉くなることを単純に肯定するばかりの社会ではなく、社会で偉くなることを喜ぶ社会を問題視する見方を。力(パワー)やお金(マネー)だけが評価の基準となる社会ではなく、他の価値観、異なる考え方をも尊重するような社会を。

「後のものが先になる」(マルコ10:31)、「弱いものこそ実は強い」(第2コリント12:9)といったイエスの示した言葉には、こうした私たちに根深い男性原理を掘り崩す、男性社会を転倒させる可能性が秘められている。

五十嵐 彰 (2009年08月09日 週報より)

おすすめ