クリスマスの不思議なできごと
教会という場で生活しているとクリスマスのシーズンは様々な不思議な出来事が起こります。一昨年のクリスマスの事でした。
その日。クリスマス・イブ前日の23日、休日の朝、インターホンが鳴り、ドアの前に見知らぬ女性が立っていました。話しを聞くと「私は大腸がんで年末、病院に入院して手術を受けるので、亀をその間あずかって欲しい。」とのことでした。私は、かつても今も、亀など、飼ったことがないし、第一、見知らぬ方からそのようなお願いをされることに戸惑を感じました。けれど、とても困っている様子でしたので、お預かりすることにしました。
一段落してのことです。午後になって電話が鳴り、電話の向こうで女性があえぐような声で「教会って冷たいところですね。」と言うのです。よく話をきいてみると、実は身重になった彼女と夫は、過酷な労働を強いる千葉の建設現場宿舎から脱出してきたのでした。八王子の知人を頼って来たのだけれど友人はすでに、引っ越してしまって、困っているとの事。困り果て、近くの教会を何軒か訪ねたけれど、「こじき扱いにされた!」というのです。「『横浜のほうで食事を供給しているところがあるから、そちらにいきなさい』ともいわれた。」と訴えられます。くやしくてそのまま富士森公園でその日を過ごしていたとの事。電話では様子がわからないし、だまそうとしているのかも知れないとも思いましたが「ともかく、おいでなさい。」と答えました。私としてはここからは遠いし、バスを降りてからもかなり歩かなければならない場所なので、まさか来るとは思っていなかったのです。ところが、一時間半ほどしてインターホンが鳴りました。外はすでに日が暮れて、寒い夕方になっています。ドアの前には憔悴しきった若いカップルが立っていました。
すぐに暖かい部屋に招き入れて、話を聞こうとしました。でも女性のほうは泣きくれるばかりで、何も話せる状態ではありませんでした。やがて二人は、私達に身の上話を始めました。2時間ほど話を聞いたでしょうか。だんだんと彼らの顔に生気がもどり、冷めてしまったココアをやっと飲み始めました。その日は泊めてあげるつもりでしたが夜行バスで郷里に帰るということでお金を貸してあげることになりました。その日はそうしている間にも、クリスマス献金をわざわざ届けに来てくださる方など多くの方々が教会を訪れました。
夜になりひどい疲労感で夕食を作る元気もなく、ぐったりしているところにまた、電話が鳴りました。「夕食をご馳走したいのですが、ご都合はいかがでしょうか。」思いがけない電話にまたびっくり。
本当に不思議な一日でした。思わず私は「靴屋のマルチン」の話を思い起こしていました。「靴屋のマルチン」はロシアの文豪とよばれた作家・トルストイが書いた物語です。あらすじを簡単に書きます。
『マルチンは信仰厚い人でした。クリスマスが近づいたある夜、マルチンは夢の中でイエス様の声をきいたといいます。
「マルチン、マルチン、明日、あなたの家に行く」
次の日、マルチンは仕事をしながら窓から外の様子を気にしていましたがイエス・キリストはいっこうに現れません。そのかわり、窓から雪かきをしている老人が寒そうにしているのが見えました。マルチンは老人を家に招いて暖かいお茶を振る舞いました。次に赤ちゃんをかかえた貧しい母親が通りました。マルチンは寒そうにしているお母さんにショールをあげました。次に通りすがりにおばあさんのかごからリンゴを奪おうとした少年が見えて、マルチンは急いで外に出て、少年と一緒におばあさんに謝りました。
「ただの夢だったか」とマルチンはがっかりしましたがその時、イエス・キリストが現れ、「今日、おまえの所に行ったのがわかったか」と言い、雪かきの老人、貧しい母子、通りすがりのおばあさんと少年に変わったのでした。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」マタイ25章40節』
人はつい外見で判断しがちです。そうした心の判断は、態度や言葉に表現され、「・・・に行ったら」などとつい言ってしまうのです。でも、じつはそれがイエス様なら。試されているのはじつは私なのです。イエス様が、助けを必要としているひとりとして、そして愛や慰めを与える方として、おいでになることを実感した一日でした。
小枝 黎子 (2007年02月04日 週報より)