今日を大切に生きること
もう30年も前の出来事です。でも忘れられない出来事があります。わたしは、当時1歳にもならない長女を抱きあげて、のんびりと道路側が良く見える部屋から外を眺めていたのです。するとある小型トラックがとつぜんハンドルを切って教会の庭に入り込んできたのです。教会の敷地の端には、井戸の工事のあとで、いらなくなったコンクリートの土管が花壇代わりにおいてあったのです。車はその土管を押しつぶし、ゆっくりとわたしのいる方向にユルユルとむかってきます。当然、完全停止するだろうと、見つめていました。けれど車は止まりません。部屋の前にはもうひとつのU字溝のコンクリートブロックが部屋から出入りがしやすいように置かれていました。車はそのU字溝に衝突し、激しくガラス窓を揺らせて止まったのです。
じつは車が教会に近づいた瞬間、運転手である魚屋さんの男性は心臓発作を起こし、意識を失っていたのです。二つのコンクリートブロックがなければ、わたしたち親子は、怪我をするか、最悪のケース、生きていなかったかもしれません。
わたしがすぐに長女を置いて、飛び出して、車のドアを開けたとき、彼は最後の視線をわたしに向けて、絶命したのでした。教会の敷地に向かってハンドルを切るのが彼にとっては可能な精一杯の行動でした。力尽きて、車を最終的に止めることはできなかったのです。ドアを開けてわたしが彼を抱きとめてあげたのが、地上の最後の瞬間だったのです。この人はかなりの巨漢で、健康管理には問題があったと、後で聞きました。
数日して悲嘆にくれ、憔悴しきってこの方のお連れ合いが御迷惑をかけてと、挨拶に見えました。その日、元気で家を出た魚屋さんは、それから起こるべきことなど知るよしもありませんでした。人生は分からないもの。人間とはそうした存在であることを、わたしはあらためて骨身にしみて教えられたような気がしたものです。
けれど、この出来事は、この人だけの問題ではなく、だれにでも当てはまる出来事です。だれもが明日どうなるかはわからない。だから人生は見通しも立たず、不安だらけと受け止める人がいるかもしれません。しかし、逆もあります。未来のことが何もかも分かりきって、先々のことすべてが分かっていたら、かえって面白味に欠けるかもしれません。明日何が起こるのかわからず、とつぜん終わってしまうかもしれない人生。だからこそ残された日々はとうとく、今日という日を生きることは、大切なのです。
今日語るわたしのことばが、あなたにとって最後の言葉だとしたら、美しい言葉を語りたい。できれば、あなたに、わたしの悪意でなく、善意を残したい。あなたを愛しているよ、といって世を去りたいものだ。そう願うのです。天才モーツアルトが最後の最後で、レクイエムの<ラクリモサ>(涙の日)を残したように、信仰の言葉で、最後を締めくくればそんなすばらしいことはないけれど。
イタリアの教会を 訪ねると、あちこちで骸骨を見せられる。それほどに人々は死を身近のものとして意識していた。死を身近のものとして覚えれば覚えるほど、現実の生の大切さを深く意識することになります。やがて神のみ手に受け止められるこのはかなくも美しい人間の生と死。だからこそわたしたちはこの日を大切にいきます。
(2006年09月24日 週報より)