痛みを負いつつ

さわやかな秋の日々を迎えています。

わたしはこの一週間さまざまな人々と出会い、会話を重ねました。数名の方々がこころと体に痛みを抱えている人々でした。数からすれば、この一週間にわたしが個人的にお目にかかった人々は両の手で数えられるほどの人々です。でも日本の社会全体とすれば、どれほど多くの人々が耐えがたい痛みを抱えながら日をすごしていることになるでしょう。人が人生の日を重ねれば、肉体をすり減らし、病を得ることでしょう。わたしもこの数年、四六時中、耳鳴りがたえません。むしろ年々強くなります。耳鼻科に行きましたら、安定剤を処方されました。以来、耳鼻科はやめました。気持ちは若いつもりでも、わたしも若くはありません。

多くの人が、若い日に希望をもって最善の伴侶と出合ったはずです。けれど10年、20年結婚生活が進むと、お互いの欠点や弱点ばかりが目について、出会った頃のときめきは記憶にもなくなるかもしれません。一方が病んでも、連れ合いの同情心より、友人の同情心のほうが篤かったりします。夫婦の思いやりはいよいよ冷えてゆくケースも珍しくはありません。

しかしその一方で、キリスト者である人は、もう一つの平安を見出す人もいます。つまり自分が痛みを負うことによって、他人の痛みを理解する人もいます。今週出合った一人の方はそういう人でした。ご自身が大病を克服し、なおつらい状況にありながら、他者への深い同情を持っておられる方でした。痛みには差別されることの苦しみもあり、人間関係の中で理解されない苦しみもあります。

周囲が何もかも都合よくまわり、苦しみも悩みもなく、あご一つで人を動かすような立場にあるなら、むろん人によりますが、傲慢不遜に流される人もいます。よきサマリア人のたとえに登場する祭司、レビ人が傷ついた旅人を助けられなかったのは理由があります。彼らは社会のエリートでした。言葉では、説教では「弱さを抱えた人を助けよ!」と叫んでいたかもしれませんが、彼らは痛みを知らない人々でした。たぶん彼らがほんものの祭司、レビ人としての意識があればそういうことにはならなかったはずです。ここでは日常的な差別をユダヤ人から受けていたサマリア人が、傷ついた旅人を助けました。彼は、この時とばかりにユダヤ人への復讐を、とは思わなかったのです。 差別される苦しみ、暴力を加えられる苦しみを知っていたからです。

人としてできれば病や苦しみからは無縁でありたい。でも苦しみや痛みからまったく無縁な人生はありえないでしょう。誰もが病気を得、また心に苦しみを抱えます。そして痛み、苦しむ心には、そうでなかったときに見えないものが見えてきます。キリストは人々の苦しみを深く理解なさいました。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。

イザヤ53:3

キリストこそ他者の痛みを深く理解し、言葉と行動による暴力を捨てられました。私たちも痛みを知っている者として、たとえどんなに正当に思えても、そして小さく見えようとも権力的、暴力的に振舞うことは捨てるのです。

(2013年09月29日 週報より)

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