信仰のひと

「なぜ?」と問われると困るのですが、私は小学校のころから教会に関心があり、一度訪ねてみたかった。でも、初めて教会に行ったのはちょうど20歳の時です。それは私のイメージのなかにある教会とは似ても、似つかない、狭くて、ほこりまみれのバラックの二階。そろばん塾を日曜だけ借りた集会所だった。小学生の時、そこで算盤を習った。そこで牧師の役割を果たしておられたのは、府中の米軍基地内のアメリカンスク-ルの教師ヴァイオレット・ルートさんと言う中年女性だった。

ミス・ルートは終戦直後仙台においでになって、やがて東京に転勤になられた。この方は仙台、亀有、桜ヶ丘、府中の四つの教会の設立に関わり、ひとつを除いて、いずれの教会も大きく成長し、結実して今があります。私が初めて訪ねて、目にした、その集会所は、オルガンはなく、講壇もなく、教会らしいたたずまいなど、どこを探しても見えなかったのです。
ですが、私にとってそれはなんとも幸せな信仰生活の始まりでした。毎日曜日の朝、当時誰も乗らなくなったような1940年代のボッロボロの巨大なアメリカ車に、CSの教材、プレゼントカード、貸し出し用の聖書、バイブルクラスのための英語の讃美歌と聖書を満載して、ミス・ルートは、おいでになった。CSは聖書学院の修養生が担当して、彼女は礼拝と、午後のバイブルクラスを担当なさった。その時のありさまを私は今でもまざまざと思い起こします。いまから40年前の事です 。

この人は強固なファンダメンタリストだった。私は教会に行ってまもなく教文館でNew English Bibleを買った。これを見て、これはモダニズムだから良くない。英語の聖書ならキング・ジェームズ版に限ると言われた。カトリック教会についても相当なアレルギーがあったようだった。でも、私の信仰の土台はそこで育った。この方は私の人生の最大の師である。信仰者として潔く生きる。鮮やかに生きる。学校でもいい先生だっただろうと思う。でも、この人にとって最大の使命は日本における伝道だったと推測する。もっとも、私が音楽が好きだと知って、バッハのマタイ受難曲のレコードを、それも1937年、ナチス侵入直前のオランダのオーケストラの録音した歴史的名版のレコードをを貸して下さった。

キリスト教信仰を生きることは、車の操縦にたとえられる。動かない車に乗っていても何の意味もない。エンジンをかけ、ギアを入れて、シフトをロウにしてアクセルを踏み込む。さらにシフト・チェインジしスピードを上げる。 車は信じられない速さで、走り出すと、理性も、五官も、全く違った世界に変化して行きます。キリスト者としてシフトチェインジしても、何も変わらないと言うことは有り得ません。由木教会員のHさんのお父上は、しばらくまえに引退牧師となられた。当然以前より時間が出来たので、あちこちを訪ねられる。ときおり、アメリカにいかれるそうである。ある集会で高齢になられたミス・ルートにあわれ、尋ねられたそうである。<コエダ君は、元気でいるかしら?>と。この人には、信仰による日本の子供達がたくさんいる。目立たないけれど、私も、その一人なのである。それにしても、神の導きの御手は、長く、大きいのです。

(2005年02月20日 週報より)

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