きっと神のみこころだ
今日の午後、高幡カトリック教会の<さつき祭>のバザーに由木教会も参加します。日本キリスト教団永山教会も加わります。野外礼拝(ミサ)は10時から。バザーは11時半から始まりますから、われわれが礼拝を終えて、大急ぎでかけつけても、12時半くらいにはなりますから、その間、例年、キムさん(高幡教会員)が由木教会のブースで、一生懸命働いてくださいます。深く感謝したいとおもいます。
高幡カトリック教会とのかかわりは一見偶然に見える出来事から始まったのです。18年前に南米ペルーから日野市にある自動車会社に働きに来ていた3人の青年が、ある晩、由木教会を訪れたのです。彼らの名前はフェリーぺ、フェルナンド、カルロの3人でした。3人は仲良しで、夜、散歩をしているうちに、夜空に明るく照らし出された十字架を見て、故郷を思い出し、たまらずに教会に入ってきたのです。でも彼らの話す言葉はスペイン語です。わたしには対応もしようがありません。それでもともかく数十分かけて、お互いの紹介をして、気持ちを行き交わしたのです。わたしはそれでことを終えたつもりでした。
ところがじつはそうではありませんでした。コトは終えたのではなく、スタートしたのでした。次回はこの人々は5人で来たのです。言葉は分からなかったのですが、なにか好印象(?)を抱いてくれたからでしょうか! それにして、もうこれで彼らが由木教会にくることはなかろう、とおもったのです。けれど、しばらくして、その3人が再び底抜けの笑顔を浮かべて姿を現したのです。
何かしてあげたいけれど、何も出来ないというのは、空しいものです。そこで、わたしは彼らを車に乗せて、わらをつかむような思いで、中央大学となりの高幡カトリック教会に3人をお連れしたのです。そしてたまたま教会の玄関に、以前から知り合いであったTさんが居られたのです。しかも教会にはそのときに、スペイン人のシスターの方がおられて、3人は行き届いた、暖かい歓迎を受けることが出来たのです。
シスターの方の通訳を介して様々なことが分りました。当時日本はまだバブル経済の中にありました。日野市にもペルーから400人以上の労働者達が主に自動車産業に従事しにやってきていました。彼らの言葉では「ペルー国内で働くよりは高給だが、重労働のうえ、手や指を切断したり、目にしょうがいを受ける人も多い。ペルー人は日本人の行わない危険な労働にまわされる。日本に来て、楽しみや、こころの安らぎが与えられる日は一日もなかった。教会に行って、礼拝で祈りたい。」ということでした。
高幡教会でシスターの方々や、ルイ神父はそれはそれは温かい歓迎をしてくださいました。それには理由があったのです。ルイ神父は高幡教会に来て1年目でした。前任地は江東区のカトリック潮見教会。かつて蟻の町といわれ、ゼノ神父や蟻の町のマリアといわれた北原玲子さんが労した教会です。ルイ神父は最底辺にいる労働者や不当な差別に苦しんでいた在日韓国人、朝鮮人の問題を全身で受け止めてきた良心的な神父です。 さらにルイ神父はすでに日本の永住権を持っていたとのことですが、日本語しか話すことのできない在日韓国人がなお差別的な取り扱いを受けていることに心痛め、当時指紋押捺を拒否されたのです。いったん日本国外に出国すると再び再入国が認められない状況にありました。ついに母親の葬儀に出国することも諦めねばならなかったのです。決して闘争家タイプではありません。しかし身体からやさしさがあふれ出すような方でした。この教会にぺルーの青年達をお連れしたのは正解でした。
それにしても、いつの時代であっても、わたしの知らない場所で、厳しく、つらい日々を送っている外国人がいるものです。「寄留者、外国人をもてなすように。」聖書はそのことを最初から命じています。
(2010年05月16日 週報より)