わが家の収穫感謝祭
本日は教会暦では収穫感謝日です。先週、わが家でも恒例のキウイの収穫祭(?)を行いました。ことしは170個のキウイの収穫があったのです。すでに実が落ちて、朽ちてしまったのもありますから、実数はもっとおおく実ったのです。ていねいに、大切に手入れがなされているキウイなら別に取り立てて騒ぐこともないでしょう。でもこのキウイは、なにしろ20年近くも鳴かず飛ばずというか、何の実もつけずに、場所ふさぎだけでしかないキウイだったのです。切るしかない。切ってしまおう。こちらの忍耐ももはやここまで。というところまできていたのです。でもその前に、強烈な西日でクーラーも利かなかった書斎にグリーンカーテンとして、もし枝を伸ばしてくれるなら。それも出来なければ、切り倒そう。連れ合いの並々ならぬ決断に恐れをなしたのか、キウイは数年前、盛大に書斎の前に葉を茂らせてくれたのです。
グリーンカーテンの効果はテキメンでした。キウイの葉は大きくてしかも分厚いのです。夏場、4度-5度は気温が下がった印象がありました。昼間の気温上昇が抑えられましたから、夜はいっそう涼しいのです。のみならずその年から実をもたらしてくれたのです。しかも結構そのままでも甘いのです。それが今年は170個でした。木になっているキウイを見たことがない鄭鉉静さんと呉暁燕さんもお手伝い下さっての収穫でした。
物事はあきらめたら、それまでだ、と言うことがわかります。あきらめないで、じっと待つこと。やがて死んだように眠りこけているキウイも、驚くほど多くの実をみのらせてくれるのです。どこまでもつるを伸ばして、生えあがってくるキウイに、わたしは驚きというか、恐れすら抱きました。目の前のベランダに巻きついているキウイのつたは直径が2cmもあります。これをはずそうとするのは、こん身の力が要ります。あの<ジャックと豆の木>のお話を連想するほどです。まきつくものがあれば、天にまで伸びていきそうないきおいと力です。どこからこんな力があのキウイにあったのでしょうか。
たしかに、たかがキウイの話です。ですが生き残りをかけた(かもしれない)キウイの生命力には、驚きにくわえて恐れすら感じたのです。自然界の法則は確かに力による〔適者生存〕です。けれど人間的な生き方はそこに神が介入します。神の力は、「弱いところにこそ十分に発揮される」(2コリント12:9)のです。
1620年オランダのライデンを出発したメイ・フラワー号に乗ったピューリタンは総勢102名。寒風吹きすさぶケープ・コッド(ボストンの南)に着いたのは11月9日。上陸が完了したのは12月16日。その冬、飢えと寒さで50名の人々が亡くなっていきました。彼らが生き残ることが出来たのはネイティヴ・アメリカン-いわゆるインディアンたちの友情でした。けれどその後のアメリカの歴史は徹底したインディアン殺戮に終始します。助けられた事実、神に恵まれた事実を忘れると、感謝祭は単なる収穫祭-自然からも、他者からも収奪する祭りに終わってしまうかもしれません。途方にくれ、家族や仲間を失っていくピューリタン達を助けた人々こそ、感謝祭の出発点です。
(2009年11月22日 週報より)