できることなら
2歳9ヶ月になった孫の莉音(りね)ちゃんは最近、急におしゃべりが上手になって、家でおこったこと、保育園であったことを話してくれます。もっとも彼女の話の2割ほどは、私には理解不能な「リネ語」です。でも5歳の姉の未海ちゃんに「今、莉音なんて言ったの?」と聞くとちゃんと通訳してくれます。言葉が通じるようになったからでしょうか。以前のいらいらした時に見せた顔をしかめる表情がほとんど見られなくなったのです。やさしい気持ちが言葉になって出てくるのです。彼女の言葉は彼女の感情、要求、気持ちがそのままに現れています。その言葉には裏もなければ、含みもありません。幼子の言葉は正直そのものです。
それに比べて大人の言葉は時折解読が難解です。最近よくあるのは、謝罪という名の開き直りです。でもこの原点は日本のトップに見られるものです。
「戦争を始めたのは軍部だが、やめさせたのは私。」と昭和天皇。
「南京事件は正しく伝えられていない。事件・事件と騒ぎ立てるのは、日本をおとしめる陰謀だ。」
つまりあの出来事はなかった、といわんばかりの 主張。
「日本人は、朝鮮を占領することでいいこともした。?!?!」
大人の言葉はどこまで本気で言っているのか、真意はどこにあるのかないのかよく分からなかったり、そも、意味不明であったりもします。ですから幼い子供たちと話していると、心澄んでくるような思いがします。その話す言葉や書く言葉が、たとえどんなにたどたどしく、幼稚なものであっても、その言葉が正直で、うそ、偽りのない、信頼できるものかどうかこそ、言葉の基本的な必要条件です。人と人とは真実な言葉の力によって、結びつきます。
人生を生きることは、その人がどれほど社会的に成功し、金儲けをし、立身出世をするかで、その人生を計る考え方は、今も消えたわけではないでしょう。けれど人はいつか人生を終えねばなりません。札束をあの世に持っていくことは出来ないし、会社での出世も、退職してしまえばだれもそれに着目し続ける人などいないでしょう。でも人はただ定年退職や死で消えていくのではありません。人は他者の心の中に生きつづけるのです。人生とはよきにつけ、悪しきにつけ、自分自身の姿を他者の心の中に投影し続ける作業の積み重ねといえるかもしれません。
人は言葉で何がしか自分自身を飾ることが出来ますが、他人の心に投影された存在観は、願望で飾られた自己ではなく、あるがままの自己にほかなりません。ダ・ヴィンチをはじめとする名画に登場する天使はみな幼子で描かれます。人がどれほど正直で、素直であるかこそ、他者の心に印されることでしょう。
そうであれば、この日こそ少しはマシな生き方をしようと朝をスタートします。未来を予見できない人の身は、万・万が一、今日が人生の終わりの日であるかもしれません。それは若いとか、老いているとかの問題ではありません。誰にも等分の可能性があります。もちろん人生にはやがて100%の確率でこの日を迎えます。もし今日という日が、人生の最後の日であるなら・・・?
そこで、語りうるとすれば、許しを請い、和解を求め、愛で結ばれる以外の言葉はありえないと思います。幼子のように正直で、周囲の人々を信頼し、愛に生きること以外にはありません。
しかしながら一日を終えて、今日が自分の願いどおりの良き歩みが出来た日であることはまずありません。失敗があり、慙愧があり、悔いだらけの毎日です。この日、私はどう真実に生きられるだろう。目の前の天使たちに見習おうと願いつつ、神を見上げ、もう少々この日々を歩ませ給えと、祈るのです。
(2007年12月02日 週報より)