信じる心

おもえば私の知らないところで、途方もない苦しみを負っている人々がどれほどいることでしょう。生きがいを見いだせなくて苦しんでいる人、愛されなくて苦しむ人、愛するがゆえに苦しむ人、食べるものがない人、罪責感に苦しんでいる人。あげればきりもありません。
先週、生活保護を打ち切られた56歳の男性が「おにぎりが食べたかった。」と書き残し、餓死して死後発見されたという新聞記事がありました。この人は市の生活保護課の職員の方に、仕事に着くように言われ、「うん、そうする。」 と答えたのだそうです。「それが出来るなら、こんなところに来るはずはない!」と、心の中で叫んでいたに違いないと思います。その冷たさに絶望してしまったのだ、と私は思います。(ただ、生活保護打ち切りを伝えた職員も、上からの職務上の命令なので、その人に非があるとはいえません。軍事傾斜、福祉切捨てという体制こそ問題です。)ただ、この人にもし生きる意欲があれば、場合によっては物乞いをしても、極端な場合、万引きしてでも、生きるすべはあったでしょう。しかし、彼は生きる意欲を失ってしまった。抗議の意味も含め、餓死を選んだのです。そこにいたる孤独と悲しみを思うと、ここまで人と人の絆が壊れてきてしまった現代社会の実相が見えてくるようです。

聖書の話です。(ルカ21 : 1-4)夫に先立たれた貧しい女性が手にしていたレプトン銅貨2枚。たぶん数十円ほどの生活費の全部を、献金箱に投入するのを、主イエスは見たのです。人が関心を寄せるのは、優秀で、名声のある、外見のいい、美しい人です。この、夫を失っていくら働いても貧しい、若くもない女性に目を注ぐ人はいなかった。だれも目を留めない極貧の女性をじっと見つめたのはイエス・キリストだけでした。ローマが支配する時代に生活保護制度などはありませんでした。健康保険が整えられていたわけでもなかった。ただ制度があっても、苦しんでいる、貧しい人々がしっかり守られるかどうかは、いまの社会が証明しているようなものです。残った2枚のレプトン銀貨。日本人ならせめて握り飯でも買って、この世の最後の食事にしようとするだろう。彼女はそうはしませんでした。この残った最後のお金は神のために捧げようと堅く決めていたのです。

簡単に北九州の男性と2000年前の女性を比較することは乱暴だけど、でもそこには際立った違いがあります。少なくともこの女性は生きること、死ぬことを神の手に委ねようとしたことです。つまり、それ以降の自分自身のすべてについて、神を信じたのです。死をもって誰かを恨んだり、抗議するのでなく、まず自分の持っているものを神に捧げたのです。

どうしたら自分自身の安全保障を図れるのかはいつの時代にも大きな問題でしょう。効率のいい利殖、自分への投資で将来設計を考える人も多いかもしれない。でも、これをしたら生涯大丈夫という方法など、きっとないのです。社会の大変動が人を頂点から突き落とすこともあれば、その逆もあります。また、お金や社会的地位が、将来の人の幸せを約束するものでもありません。手に握りしめているレプトン銀貨を、神の手に委ねようとできる心とは、神を信じる単純な心です。どんなに失っても最後に残ったレプトン銀貨くらいはだれにもあるのです。これをどうするかで、人生は変わるのです。信仰か不信か。希望か絶望か。人はどちらでもいま選べるのです。

(2007年07月15日 週報より)

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