共生か排除か

いま世界で偏狭な民族主義/国家主義を越えようとする努力がある一方で、依然として血も凍るような恐ろしい紛争が止むことがありません。民族によってはその成り立ちを物語る神話を保有しています。単なるお話しとしておもしろおかしく受けとっているぶんには問題はありませんが、かつての日本のように、それがあたかも歴史的事実であるかのように受けとめだすと、困ったことになります。ドイツナチ党の党首ヒトラーもドイツ民族こそ世界に冠たるア-リア人であり、ユダヤ人やロシア人は劣等なる奴隷民族であるとゲルマンの神話に酔いつつ、思い込んでいたようです。
神話に基づく国家主義、民族主義こそ極めて危険な考え方です。現代のイスラエルにおいて、「パレスチナは、聖書の中で神に約束された約束の地。この地はパレスチナ人のものでなく、ユダヤ人の地である。」と一方的に受け取るならそれも危険な考え方といわざるをえません。実際パレスチナのユダヤ化は進む一方ですが、このパレスチナという場所ほど、民族や宗教を越えて、共生が望まれる場所はありません。パレスチナ人が、いつまでもイスラエルにおける二級市民扱いされ続けることは、世界における人権問題の一つの中心なのです。

『あなたは、あなたの神、主の前で次のように告白しなさい。
「私の先祖は、滅び行く一アラム人であり、わずかな人々を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこの私たちをしいたげ、苦しめ、重労働を課しました。 私たちが先祖の神、主に助けを求めると、主は私たちの声を聞き、私たちのうけた苦しみとしいたげを御覧になり、力あるみてとみ腕をのばし、、大いなる恐るべきこととしるしと奇蹟をもって、私たちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて、乳と蜜の流れる子の土地を与えられました。 わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここにもって参りました。」
あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを備え、あなたの神、主の前にひれ伏し、あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人及びあなたの中に住んでいる寄留者とともに喜び祝いなさい。』

申命記 26章 5-11節

イスラエルが強力で、凶暴な周辺国家に囲まれながらも、なお生き続けることが出来たのは、この信仰告白によるのでした。イスラエルが、はるかに、軍事や、文化、技術的に優れた国家に囲まれながらも、消滅することなくまもられ、逆に滅んだのは周辺国家でした。神を信じることこそ、こうした信仰告白に生きることこそ、イスラエルの、なによりもの安全保障でした。聖書の神とともに生きようとする時に、自己中心的な国家主義にたって、他民族を踏みにじったり、見下したりすることは出来ないのです。旧約聖書は、いかにイスラエルの過去が罪と恥に満ちていたのかを、次から次へと、容赦なく暴露します。それがイスラエルの過去であり、現在であることをあらわにします。神にも、他民族にも誇ることなど出来ない姿であることを告白したのです。だからこそ神に頼らざるを得ないのです。それはイスラエルの弱さであるとともに、同時に、イスラエルの強さでした。
こうした歴史の見方の対局に、神話と歴史を結合したさせた英雄主義的、民族主義があるような気がします。そこから他者への差別が生まれてくるのです。イスラエルが<神に選ばれた>と言う一点だけを見れば、選民主義も分からないことはありません。でも、本来、<選ばれるはずのないものが選ばれた>と言う感謝が聖書にはあふれています。平和的な他者との共生か、軍事的な他者の排除か。聖書的なメッセージに生きることこそ、答なのです。

(2005年07月24日 週報より)

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