その人の残像
私たちはそれぞれに由木教会で教会生活を歩んでいます。初めから由木教会でキリスト者としての歩みを始めた人もいますし、他の教会で長い教会生活をして、今は由木教会でその歩みを進んでいる人もいます。でもそれぞれの人の歩みは神の御計画と導きの中で起こっていることです。そこには単に週に一度か二度、教会で顔を合わせるという頻度の問題では測れない意味があります。
以前ある美術館でオランダの画家の奇妙な絵を見たことがあります。背景に描かれているのは教会の礼拝堂の中です。しかしよく見ると会堂の左側の敷石がはがされて、そこに亡くなられた人の棺がおかれ、やがてそこに埋葬されるという絵です。そういえばヨーロッパのかなり大きな教会でカトリック・プロテスタントを問わず教会にかかわりのあった人々が教会の礼拝堂の中に葬られているケースがあります。むろんごく限られた人々に限られますが。あの地動説を唱え宗教裁判にかけられ、有罪の身となったガリレオ・ガリレイの墓もフィレンツェの壮麗な教会サンタ・クローチェ教会の礼拝堂におかれているのを見たときには驚きました。18世紀の事だったようです。カトリック教会もガリレオ裁判で下した判決がまちがっていたことに気づき、ガリレオの功績を認めサンタ・クローチェ教会になきがらを迎えたのです。今日も礼拝する人々はその墓となっている銘板に刻まれた名前の上を歩いて聖餐やミサにあずかるのです。
有名な人であろうと、無名であろうと、教会にはその時々の信仰を歩んだ人々の足跡が記されているように思います。由木教会は教会としては新しい教会でしょう。それでもここに集い、信仰を刻んだ人々は少なくはありません。人が神の言葉に心動かされ、今日から神の前に歩むのだと自ら決断して歩み始めることは軽いことではありません。それは重大で美しい信仰の出来事です。たとえ時が過ぎ、地上の生活を終えて天国に移された人でも、地上の教会には彼、彼女の残した残影・残像が残ります。その語ってくださった言葉、信仰に満ちた生き方は残された人の心に刻まれているものです。
キリスト者として歩む中に、これでいいのかと反省する日々のない人は 少ないのではないだろうか。とはいえ、そうした思いに駆られるからこそ、みずからをさらに神の前にふさわしく整えようとする思いも生まれます。そしてこうも言えます。キリスト者の歩みと、そうでない人の歩みはやはり決定的に違うのではないか。魂に信ずる方を宿しているからこそ、わたしたちの歩みはそこからスタートします。信仰の思いは、信仰の言葉を生み出し、信仰の行動を生み出します。教会は今集っている人々の顔だけで成り立っているのではないといえるかもしれない。すでに天に移された人々の信仰の思いが、残された人々に引き継がれ、継承されてバトンが次の世代に手渡されます。世界中で召天者記念礼拝を二週間後に持つ意味もそこにあります。
(2015年10月18日 週報より)