人類みな兄弟姉妹
イエス・キリストが十字架にかかり、復活して、やがて天に帰った後で、パレスチナに教会が誕生しました。人が集まると、当然、裕福な人と貧しい人がいます。高学歴の人とそうでない人がいます。肌の白い人がいれば、黒い人もいます。権力に近い人がいれば、全く無縁の人がいます。普通の集団であれば、その違いによって無数の線引きがなされます。線引きはすなわち、上下の格差そのものなのです。線引きされたこちら側と、あちら側では全く別の世界があります。朝鮮半島の北緯38度線の南と北では、同じ民族、同じ文化を共有しながら、北側では、人々は極度の貧困と飢えに苦しんでいると伝えられています。パレスチナにおいても、高くめぐらされた分離壁のあちらとこちらでは、水の供給量から、生活の隅々まで全く違った風景があります。狭い日本でも、不利な側に線を引かれまいとして、人々は懸命により高いと考える所を目指して頑張ろうとします。
地上に初めて現われた教会は人種的にも、階級的にも多種多様な人々が集まる共同体でした。そこで人々はたがいに<兄弟・姉妹>と呼び合ったのです。日本語としての<兄弟><姉妹>は、兄、姉が、妹、弟より上であることを意識しますが、それは日本的な家意識からくるもので、欧米的な意識では同じ親から生まれた子供達という思いが強いような気がします。人類が等しく、同じ親のもとにある子供達という一体感、共通の意識で結ばれる時に、つまらない線引き争いから自由にされるはずです。
かつて私たちの教会の周辺にまだ空き地があった時です。寒風が吹き始めた11月頃、戸外にいたホームレスらしき老人がたまたま、暖を取ろうとして夕方たき火をしたのです。今ではそうすることはかないませんが十数年前は、落ち葉たきくらいは、さして問題ではありませんでした。しかし、この時、誰かが通報したらしいのです。突然のサイレンと共に数名の警官が急行して、罵声の中に彼は連行されて行ってしまったのです。ふつう地元の人がたき火をして、通報されても、飛んでくるのは赤い消防車です。パトカーが来ることはまずないのです。ホームレスのたき火は犯罪として受け止められたのでした。
私と話したことがある中学生がクラスの班ノートに書きました。そこに担任の先生のコメントが書き加えられていました。『外見で人を見ることは大きな間違いです。でも、そのように見られないように注意することも大切です。』人間を差別的に分け隔てる序列意識、線引きそのものが問題なのに、このセンセイは、序列を受け入れてしまったのです。この先生も序列意識の中で、精一杯に頑張って生きていたのだと思います。
教会の人間関係の根本は兄弟姉妹でした。言葉だけ兄弟姉妹で、実はなんらかの有力者が教会を牛耳っているなら、兄弟姉妹とはとうてい言えないでしょう。人間みな兄弟姉妹。手をたずさえて、助け合う共同体。いつも、どこまでも、そう教会で共に生きて行きたいと思います。
(2005年06月05日 週報より)