ゆきづまりの中で!
現代世界は明らかなゆきづまりの中にあります。中東、アフリカの政治的、社会的混乱は、これまでの世界を誘導してきた超大国の凋落と無縁ではありませんし、あれほどの希望をもってスタートしたEUも、将来への不安や翳りを口にする人もないわけではありません。たぶん口にする政治家はいませんが、今後の様々なテロリズムの中で、小型核兵器をテロリストが手にすることを恐れる政治家は少なくないでしょう。そんな事態を招けば、まさに世界は直ちに破局を迎えることになるでしょう。一部の人が世界の大半の富を独占し、大半の人は不安で極度に貧しい生活を強いられる現代の現実は、まさにそれが自身がテロリズムの温床と言わねばなりません。誰もが安心して生きられる社会を一日も早く作り上げることこそ、現代世界の急務です。
昨年末には、南相馬の被災地を訪ねましたが、国道6号線福島原発近くを走るときには、車はエアコンを切り、外からの空気を遮断しなければなりませんでした。当然空気も汚染しているからです。南相馬は始まったばかりの除染工事で田んぼという田圃、畑という畑が、除染物質を詰め込んだ黒い袋に覆いつくされようとしていました。次にどこかで原発事故が起これば、日本はどうなることでしょう。
とはいえ聖書を読んでいると不思議な思いがしてきます。1世紀、イエスキリストが十字架にかかり、イエスの運動はそれで終わったとユダヤ教の指導者は確信し、安堵していたにちがいありません。しかしイエスの復活と聖霊降臨によって、弟子たちは全く変えられ、たちまちに教会の原型が形作られていったのです。それでも世界に広がっていたユダヤ教の指導者たちは、キリスト教をつぶすことなど、赤子の手をひねることと同じくらい簡単なことと思っていたでしょう。猛烈な迫害を加え、リーダーを捕え、殺し、厳しい弾圧を加えたのです。
たぶん信仰を捨てた人々も数としてはたくさんいたことでしょう。しかし大半のキリスト者は、信仰を捨てて、教会を解散する代わりに、辺境というか、ローマ帝国の隅々にまで散らされることを選びました。それはローマ帝国の域外のインド、エチオピアにまで及んだのです。そして、迫害の中心人物であったサウロが、シリアのダマスカス近くで復活のキリストに出会って、熱心なキリスト教徒と生まれ変わってしまった。この人こそ後の日の宣教者パウロとして、キリスト教史、最大の宣教者として活躍するに至るのです。キリスト教においては安閑・安穏とできるときなど最初からありませんでした。極度のゆきづまり・逆境が神の活動を造っていきました。
十字架をシンボルとするキリスト教は、つまりは最初から極度のゆきづまりの中を歩み始めたのです。逆境に出会うときに、人はまず信仰からの撤退を考えます。逆境は神から見捨てられた証拠と思い込むからです。しかしことは反対かもしれません。逆境は神が働く機会と採るべきかもしれない。
我々はその日の天候が雲にとざされているだけで気がふさいだりするものです。その時代絶対者のようにふるまっていた独裁者がたちまち失権というようなことは日常茶飯事に近いと思います。絶対という言葉が当てはまるのは神をおいてほかにはないのです。一方では暗雲たれこむような社会に見えないことはありませんが、だからこそ、今は神の働くとき、信仰の時です。
(2015年02月01日 週報より)