鋤に手をかけてから

また別の人も言った「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる人は、神の国にふさわしくない」と言われた。

ルカ9:61,62

主イエスの弟子として、決断して、歩み始めようとした人に対して、主イエスが語られた言葉です。鋤を操る農夫の姿を思い浮かべて主イエスは語られました。農耕にトラクターが使われるようになったのは日本でも戦後のことです。それまで人類は農耕に圧倒的に永い間牛馬を使ってきました。農夫が鋤に手をかけると、牛や馬は前進するのです。畑でも、田んぼでも、日本の農夫は几帳面にまっすぐに畝を作り、種をまきます。そうなるように牛馬をコントロールしなくてはならなかった。

同様にイエスに従うときも、ただひたすら前を見つめるべきであって、後ろを振り返ることは<神の国にふさわしくない>と主イエスは言われます。私たちはそれぞれに主に導かれて、信仰の道をたどっています。そして現実の私たちは主イエスに従って歩む道をすすみながら、<鋤に手をかけながら>いかにしばしば後ろを振り返ったり、横に目をやったりしていることだろう。日常はあまりに忙しい。疲労困憊もする。眠れない夜を過ごすことも少なくない。そのため趣味や楽しみだって、心を支える大切なファクターでもある。家族のために動かねばならない。諸事雑事で追い回されて、気がついたときには自分のキリスト者らしいところはどこなのだと、このみ言葉が問うのです。

この主イエスの言葉は 創世記19章のロトとロトの妻の物語を思い出さないわけには行かない。ソドムとゴモラに神の裁きが下ろうとしたとき、神は二人を守ろうとして「後ろを振り返ってはならない。」と命じますが、ロトの妻は現に起こっていることを見ようと振り返り、彼女は<塩の柱>になってしまったと書かれている。

主イエスに従うとは、お互いに負わされた十字架を負いながら、主イエスを見失うまいと歩み続けることです。ただやはり信仰の道は軍隊のように一糸乱れずというものではない。人はそれぞれ違った歩み・人生があります。一方的に、信仰は熱情的な生きかたが良いというものでもないでしょう。熱心さのあまり人を裁くばかりの信仰というのも、じつは信仰のはきちがえでしかないともいえます。
人は信じつつ迷うものです。反省と悔い改めつつ、なお信じるのです。そして何よりもこの人生を、信仰をもって、み国に到達することが大切ではないですか。それなら最後に信じればいいではないかという人がいるかもしれません。でも、人の最後など誰が知るでしょうか。いま信じていなければ、信じる日を知らずに終わりの日を迎えることになるかもしれません。とぼとぼとした歩みでいい、りっぱに歩もうなどと考えなくてもいい。でも鋤に手をかけよう。この歩みを終わりまで、歩んでいこうではないですか。

(2012年05月06日 週報より)

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